パワプロのやつ

パワプロ2018の再現選手とか

クリス・ナーブソン【パワプロ2018】

 

先発5番手レベルではあったが、チーム唯一の規定投球回を達成した石川に次ぐチーム2位のイニング数を記録した助っ人左腕

 

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クリストファー・グレッグ・ナーブソン(Christopher Gregg Narveson, 1981年12月20日 - )

再現年度…2014年(4勝11敗 防御率4.53)

 

・2000年のMLBドラフト2巡目(全体50位)でセントルイス・カージナルスから指名され、6月27日に契約。

・その後数球団を渡り歩き、2006年9月8日のアリゾナダイヤモンドバックス戦でメジャーデビュー。10点ビハインドの7回裏から4番手として登板し、2回を投げ2安打2失点3奪三振だった。翌年からはまたマイナー暮らしが続いた。

ミルウォーキー・ブルワーズに移籍後の2009年にメジャー再昇格、2012年に左肩の回旋筋腱板再建手術を受けたため、シーズン序盤に2試合登板にとどまるまでそれなりの成績を残した。

・2013年12月25日、東京ヤクルトスワローズと契約に合意した事が球団から発表された。

・シーズンを通して1軍登録され、規定投球回に到達したのが石川雅規のみという投手陣の中でチーム2位のイニング数を記録している。しかし4勝11敗と大きく負け越し、防御率も4.53と悪く2014年12月2日に自由契約公示され退団した。

 

以降省略

 

査定

全般

パワプロ2014デフォそのまま。

 

一言

あまり覚えてないんだけどそれにしても赤特多くね?

及川宣士【パワプロ2018】

 

小・中学生時代の清原を指導した荒れ球投手


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及川 宣士(おいかわ のぶじ、1944年6月8日 - )

再現年度…

 

東北高校では1961年、2年生の時に夏の甲子園一塁手として出場。2回戦で岐阜商に敗退。翌年の夏は東北大会準決勝に進出、リリーフとして登板するが、保原高に敗れ甲子園出場を逸した。

・1963年に大洋ホエールズに入団。一時は高橋重行らとともに整理対象寸前であったが、当時の別所毅彦コーチにドロップボールを伝授され、現役維持。

・1965年4月にはこれを武器に一軍で初先発、阪神タイガースを完封し初勝利を飾る。同年は先発陣の一角として9勝を挙げた。

・その後も毎年30試合前後に登板するが、結果を残せず段々と登板機会を減らす。1973年に太平洋クラブライオンズへ移籍、この年を最後に引退した。

 

・1978年、岸和田リトルの栄川良秀監督から、抜群の素質を持つ小学生、清原和博の指導に関して相談を受ける。岸和田シニアの監督である及川が、特別コーチとして、当時の清原の弱点であった下半身強化のための特別な練習メニューを作り指導した。清原の中学入学後も、及川は岸和田シニアの監督として引き続き清原を指導した。

 

査定

球速

どっかで見つけたんだと思う。

変化球

投球スタイル的にもWikipedia的にも多分ドロップ系のカーブが一番の武器。

球種は多かったらしいが、さらにその中でも投げていたという記述が多い気がしたスライダーとフォークを採用。

ノビF、重い球

棒球だけど重かったみたい。

逃げ球

荒れ球。暴投たくさん。

 

一言

清原って小学生の頃から凄かったんだね(棒)。

今日は記事書くの忘れてたのでこの記事と雑記一つだけになります。

劉瀬章【パワプロ2018】

 

NPBで一軍出場のある唯一の中国出身者


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劉 瀬章(りゅう せしょう、1911年 - 1972年)

再現年度…1939年(8勝12敗 防御率2.40)

 

・日本の本牧中学(現在の横浜高校)ではエース投手として活躍。右のアンダースロー投手であった。

本牧中を卒業後、法政大学へと進み同野球部へ入る。東京六大学野球リーグ戦1932年秋シーズンにおいて若林忠志と共に法政2度目の優勝に貢献した。

・1938年に発足したばかりの南海軍へ入団。同年7月24日、南海初の公式戦となる「第2回読売優勝大会」の対ライオン軍戦に先発投手として登板したが、3回3失点で降板、チームも5対8で敗れている。続く7月28日の阪急軍との「南海結成記念試合」でも先発したが、こちらは3回降雨コールドゲームに終わっている。

・1940年、4月6日の対阪急軍戦で先発するものの1アウトも取れずに4安打1四球4失点で降板、試合は2対32で現在でも最多失点日本記録の大敗となっている。この後も名古屋軍戦でも2対14で大敗するなど、1つも勝てずに6連敗を喫し現役を引退した。

・政野岩夫、平野正太郎と並んで「南海のアンダースロー三人衆」と呼ばれた。決め球はシンカーだった。

 

査定

全般

↓こちらのサイトの査定をベースに作成させていただきました。

【パワプロOB査定】劉瀬章 | パワプロOB査定 投手中心に昔の選手を査定していきます

あとはそれっぽい特能とかをつけたり。

 

一言

横浜高校軍団の投手ですね。

外国人枠とかの概念がそもそもなかった頃の選手なので日本人扱いになってます。

ドン・シュルジー【パワプロ2018】

 

通算打率10割・通算長打率40割という2例しかない珍記録を持つ助っ人


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ドナルド・アーサー・シュルジー(Donald Arthur "Don" Schulze, 1962年9月27日 - )

再現年度…1991年(3勝2敗7S 防御率4.66)

 

・1980年のMLBドラフト1巡目(全体11位)でシカゴ・カブスから指名され、プロ入り。1983年、メジャー初昇格。

・その後メジャー4球団を渡り歩いたが、パッとした成績は残せず、1990年にオリックスに入団。

・当時、ブーマー・ウェルズガイ・ホフマンが在籍していたため第3の外国人扱いだったが、ブーマーの故障で一軍に昇格した。140km/h台後半の重いストレートを投げることから主にリリーフで20試合に登板し、6勝4敗3セーブ、防御率2.58とまずまずの成績を残す。翌1991年もホフマンの不振により一軍に定着するものの、成績は24試合登板で3勝2敗7セーブ、防御率4.66と平凡だった。

・1991年5月29日の近鉄戦、先発した当時新人の長谷川滋利の後を受けて登板したシュルジーだったがリリーフに失敗し、長谷川のプロ初勝利を消してしまい試合は延長戦へ突入した。そして指名打者の飯塚富司が一塁守備に就いていたため11回表にシュルジーに打席が回ると、赤堀元之の初球を左翼スタンド後方の照明塔を直撃する超特大ソロ・来日初打席初本塁打を放ち、球場は騒然となった。そのままシュルジーはその裏を抑えて勝利投手になった。これによりパ・リーグ指名打者制を導入して以降、初めての投手による本塁打が記録された。その上シュルジーの日本での打席はこれ1回きりであったため、日本プロ野球での通算打率が10割、長打率40割という塩瀬盛道(1950年)以来の珍しい記録も誕生した。

・翌年は13試合の登板にとどまり、同年限りで退団。

 

査定

球速

Wikipediaには140km/h台後半と書いてある。

調べると知恵袋で「MAXは142km/h程度」ともある。

間をとって145km/h、重い球もあるし速すぎない程度に。

変化球

シュートは確実に投げてたっぽい。

知恵袋にはフォークが決め球とある。

実際190cmの長身を活かしていたらしいので知恵袋を愚直に信じる。

登板適正

年によって全然起用法が違う、先中だったりリリーフ専門だったり先発専門だったり。

便利屋起用出来るように全て最大に。

対ピンチE

対ピンチ判定表を参考にした。

1991年だけだとFだったが、前後年ではBくらいになったためE。後述する打たれ強さの分の調整もある。

打たれ強さF、寸前×、調子極端

1991年だけを見るとLOB%は0.61とかなり低い(三年間の通算だと0.74でD相当だが)。普段の基準的にはFかGかギリギリなラインで迷うところではあるがここは思いきってGに。とやってみたところ、流石に弱くしすぎたのかオーペナで防御率5~6点台ばかりになってしまったためFに。乱調もつけていたが外し、その代わりに長谷川滋利の初勝利を消してしまった分で寸前×追加。

調子極端も追加し「勝利を諦めた試合で勝ち、勝てるはずの試合で負けてしまう」という何とも言えない感じを表現。

クイックD

上手くはなさそうだったので当初はEにしていたが、動画を見る限り普通だったのでD。

重い球

重いという記述が多かったので。

1991年は被本塁打率も低いし迷わず追加。

球持ち○

190cmの長身から投げ下ろす。

打たれ強さとかで弱くした分の調整でもある。

野手能力

ミートは打率を(メジャー時代含めたものも)一切無視してパ・リーグの投手としてはちょっと高め辺りに。

パワーは最近の打てる投手の代表格、ウィーランドと同じに。

メジャー時代でも1安打と打撃はよくなかったようだが、その1安打も本塁打という意味不明さ。

意外性

意外性でしょ。

ホームランの映像見るとめちゃくちゃ飛ばしてる。パワーD50の飛距離ではない。かといってパ・リーグの投手なので基礎能力を高くするわけにもいかなかったという理由もあるにはある。

自身のキャリアで放った安打が全て本塁打って意外性らしいんじゃない?

強振多用、積極打法

強振多用は当然として積極打法はおまけみたいなもの。

例の本塁打は初球だったっぽいよ。初球○つけるわけにもいかないしこれで。

 

一言

何か色々あって知った選手ですが作ってる人が見当たらなかったので作っちゃいました。

かなりの感性査定で作ったんですが、まぁそこそこいい感じなんじゃないですかね(適当)。

度会博文(2001)【パワプロ2018】

 

色々守れるユーティリティ


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度会 博文(わたらい ひろぶみ、1972年1月26日 - )

再現年度…2001年(打率.306 1本塁打 8打点)

 

・編集
八千代松陰高等学校から中央学院大学を経て、大学2年から頭角を現し始め、首位打者3回など、数々のタイトルを手中に収める。1993年、ドラフト3位でヤクルトに入団。明治神宮外苑で草野球をしていたところ、片岡宏雄スカウトの目に留まり入団に至った。

・入団後4年間は一軍での起用はなかったが、1996年、1997年と2年続けて二軍で3割以上を打つ活躍を見せていた。翌1998年には手薄な内野陣の中、8番三塁で開幕スタメンに抜擢されるなど、レギュラーを奪うかに見えたが、宮本慎也の復帰で1番一塁に回されるなど、スタメン定着には至らなかった。

・1999年は一軍では打撃不振で、二軍中心のシーズンとなる。この年は.357で、二軍の首位打者のタイトルを獲得。その後は主に代打として活躍。また守れるポジションが多いため、緊急事態に備えて一軍ベンチに置かれることも多かった。

・一軍ではレギュラーを奪取する事は最後までなかったが、2006年には高い代打率を残した。また同年は右の代打の切り札であった土橋勝征が引退したため、度会がその任を受け継ぐ形になり、主に左投手相手に起用された。

・2008年9月29日、現役引退を発表。神宮球場の最終戦で、同年限りで引退する真中満小野公誠河端龍と共に引退セレモニーが行われた。最終打席はレフトフライ。

 

査定

守備適正

デフォにサブポジ4がついてたので適正高めにしました。

 

一言

これでひとまず2001ヤクルトキャンペーンは終了です。

あと何人かは気が向いたときに少しずつ作っていこうかなと。

明日からはまた特に脈絡もなくランダムに作った選手を投稿していくと思います。

副島孔太(2001)【パワプロ2018】

 

日本シリーズでは決勝本塁打を放ったパンチ力が売りの準レギュラー


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副島 孔太(そえじま こうた、1974年5月17日- )

再現年度…2001年(打率.212 2本塁打 10打点)

 

↓こちらをご覧下さい

副島孔太(ヤクルト)【パワナンバー・パワプロ2018】 - パワプロ村

 

査定

チャンスB

前年とはうってかわって得点圏打率.375。

得点圏での打席数が少なかった可能性もあるが平常時打率との差が+.163となると流石にチャンスをつけるべきと判断。

 

一言

デフォで三塁適正がついてる理由が分からん。