チームプレーに徹した職人
榊原 良行(さかきばら よしゆき、1949年6月13日 - )
再現年度…1978年(打率.288 3本塁打 28打点)
説明は割愛
査定
走塁E
通年で見ても三塁打が少ない。
コーチとしても走塁指導はいまいちだったとか。
流し打ち、いぶし銀
wikiから。渋いね~
一言
中村勝広とセットで作りました。
大町 定夫(おおまち さだお、1953年4月21日 - )
再現年度…1981年(7勝1敗8S 防御率1.91)
・柳井商業高では1年生の時、1969年秋季中国大会準々決勝に進むが米子東高に敗退。その後は県予選で敗れ甲子園には出場できなかった。
・卒業後は、社会人野球の新日本製鐵光に進む。1973年のプロ野球ドラフト会議で太平洋クラブライオンズに6位指名されるが拒否。1975年にもロッテオリオンズに2位指名されたが、これも拒否し社会人野球でプレーを続けた。
・1978年には、チーム創部17年目で都市対抗野球初出場を果たし、翌年の都市対抗野球では、1回戦から5連投で3勝を記録するなど活躍し初優勝の原動力となり、最高殊勲選手に与えられる橋戸賞を受賞。同年オフにドラフト外で阪神に入団。
・1年目の1980年から主に中継ぎとして37試合に登板。翌1981年には抑えとして7勝8セーブ、50試合に登板し80イニングで防御率1.91の成績を収めた。1982年には4月末から先発陣の一角として起用されるが結果を残せず、翌1983年には登板機会が減り、同年限りで現役を引退。実働わずか4シーズンであった。
・引退後は、スコアラーやマネージャーを歴任し、2000年には営業部の課長に昇進した。
軽い球
この年は被本塁打率も優秀だが、それ以外では結構高い。
スロースターター、調子安定
先発ではダメだったが、リリーフでは安定しているなぁと感じたので。
実働年数の短さも含め渋さを感じたのでつけたかった。
古溝 克之(ふるみぞ かつゆき、1963年11月14日 - )
再現年度…1994年(7勝2敗18S 防御率2.20)
・福島商業高3年生時に春夏連続で甲子園に出場。春は1回戦で、夏は清水雅治のいた浜田高を延長10回の熱戦で降し1回戦を突破するが、秋田経大付高の松本豊投手に抑えられ2回戦敗退。
・卒業後は、社会人野球の専売公社東北に入社。早くから注目され、都市対抗野球にも出場。1984年のプロ野球ドラフト会議で阪急から2位指名を受けて入団。
・切れの良い速球派として1986年シーズンには一軍に定着し、6月には初先発を果たす。翌年は開幕から先発投手陣に加わり、1988年シーズンには自己最多の10勝を挙げるものの、以後は低迷。
・1993年シーズンオフに渡辺伸彦との交換トレードで阪神へ移籍。速球に加えて左右の揺さぶりで勝負するようになり、移籍1年目の1994年シーズンは故障離脱した田村勤に代って抑え投手に定着、自己最多及びリーグトップの61試合に登板し7勝18セーブを記録する。翌年はオールスターゲーム出場も果たした。その後は便利屋的に幅広く起用されるが、徐々に登板機会が減少。
・1998年シーズンオフにチームの若返りで自由契約となり、日本ハムへ移籍しストッパー候補となるもチームが開幕から低迷し、早々に若手主体に切り替わり出番がなく、複数球団の入団テストを受けたがいずれも不合格に終わったことを理由に同年シーズンオフで現役を引退。
緩急○
左右の揺さぶりを表現。
阪急時代は先発メインだったので回またぎ○はつけませんでした。
石川 緑(いしかわ みどり、本名:伊藤 緑郎(いとう ろくろう)、1934年5月10日 - 2004年4月20日)
再現年度…1964年(10勝3敗 防御率2.90)
・愛知県立国府高等学校から、1954年に中日にテスト入団。1955年に、一軍初登板し3勝を挙げるが、その後は一軍に定着できなかった。アンダースローに改造し、1960年に61試合に登板、13勝を挙げ防御率2.36を記録した。しかし、翌1961年は3勝にとどまり、同年オフ阪神に金銭トレードされる。
・移籍1年目の1962年は5勝に終わるが、翌年からは先発投手陣の一角を担うようになる。1964年には10勝3最高勝率を記録し、阪神のリーグ優勝に貢献した。優勝決定は9月30日の対中日戦で、完投勝利を挙げ胴上げ投手となった。翌1965年も10勝を挙げた。しかし徐々に成績は下降線を辿り、1967年オフに自由契約になり東映に移籍。
・移籍後のも前年と同程度の成績に終わり、オフに現役を引退した。
・2004年4月20日、筋萎縮性側索硬化症による呼吸不全のため死去。69歳没。
キレ○
シュートのキレがよかったらしい。
スロースターター
wikiから。
再現年度ではそこまで極端ではなかったがつけていいと判断。
写真の見つからなさに驚いた。
ダグラス・レーガン・オルト(Douglas Reagan Ault、1950年3月9日 - 2004年12月22日)
再現年度…1981年(打率.307 18本塁打 59打点)
・1969年から1970年にかけて、メジャー数球団からのドラフト指名をことごとく拒否。大学卒業後の1973年にようやく地元のテキサス・レンジャーズと契約。1976年にメジャー初昇格。
・1977年に新球団のトロント・ブルージェイズに移籍。同年4月7日のシカゴ・ホワイトソックスとの開幕戦でチーム第1号を含む2本塁打を放った。
・1981年に阪神に入団。長距離砲かつ日本野球に対応した柔軟なバッティングで入団1年目に長打率が.509、打率も.307をマークしたが、骨折もあってわずか1年で解雇された*1。
・引退後はブルージェイズ傘下3Aシラキュースの監督などを務めた。
・2004年12月22日に自殺。原因については、現在もはっきりとした原因はわかっていない。
対左投手C
左に強かったらしいが、左投手から放った本塁打は2本とかなのでC止まりに。
阪神らしい不遇な助っ人感。
*1:何故
ケビン・トーマス・ジャービス(Kevin Thomas Jarvis , 1969年8月1日 - )
再現年度…1998年(1勝2敗 防御率4.41)
・1991年のMLBドラフト21巡目でシンシナティ・レッズに指名され契約。1994年にメジャーデビュー。その後移籍を繰り返し、1998年に中日に入団。丁寧な配球でコーナーを突く投球が持ち味で先発での活躍が期待されていたが球速が遅く、宣銅烈、李鍾範、レオ・ゴメスらの活躍もあり出番が減っていった。
・その後アメリカに帰国し、数多くのチームを渡り歩いてプレーした。2001年パドレスではチーム最多で自身唯一の二桁勝利(12勝)を挙げ、翌2002年には開幕投手も務めた。2006年限りで現役引退。
全般
メジャーで活躍した2001年も意識して作ってます。
変化球
色々持ってる。
投球割合が分かる中で最もNPB時代に近い2001年をベースに決定。
リリース○
投球タイプから。
力配分、一発
一軍では被本塁打0だが二軍では普通に打たれてる。
リクエストありがとうございました。
パワプロ2020の発売日を過ぎるかも知れないけど、12球団ペナントをやりたいと思っている
— 怨霊(´・ω・`) (@glasses_ghost) 2020年5月31日
ペース的に絶対間に合わないんですが、出来る限りやる方向で考えています。
パワプロ2020では外国人により特化する予定なので日本人選手をたくさん作れるのはいいよね(外国人選手も作るけど)。
作成した選手は(各球団ごとある程度人数が揃ってきたタイミングで)まとめて投稿しようかなぁと思ってます。
オンライン終わる前にその時点で作っていた選手は全員アップしますが。
外国人選手の成績の入力も少しずつ進めていますがwikiの更新はまだまだ先になりそう。
サクセスの内容とかをある程度分かってないとアレだしね(パワフェスもキャラの解放やら何やらでどうしてもそれなりの時間がかかる)。
というわけでお楽しみに(?)
*1:買ってプレーはしてると思うけど
!?!? pic.twitter.com/1ne6gAtNdG
— 怨霊(´・ω・`) (@glasses_ghost) 2020年5月24日
ドデカパワプロブログの援護(?)もあったとはいえビックリしました。
タイトルに関しては何も思い付かなかったので許してください、パワヒさんの記事見てから「自分のブログはどうだったかなぁ~」と確認して初めて気がついたので仕方ないんです。まぁ怒られたらタイトルは変えます。
ただでさえパワプロ2018のオンラインが終わりに近づいている*2のにも関わらずブログ更新もサボり気味になっているのでアレですが、今後も当ブログをよろしくお願いします。
今日買ったカブが暴落したらしばらく失踪するので悪しからず。
合同リクエスト周りの記事は気が向いたら書きます、いつになるかは分かりませんが。
走力Aとかの迷走を経ての作り直しだったので、結局無難な感じになっちゃった
— 怨霊(´・ω・`) (@glasses_ghost) 2020年5月22日
前のよりはこっちの方がいいかな…?と思ってます。
ロバート・ジョン・バレンタイン(Robert John "Bobby" Valentine, 1950年5月13日 - )
全般
MLBとAAAのいいときを合わせたハイブリッド査定(のつもり)。
走塁E
1970年はAAAで39二塁打16三塁打だがその年以外ではそこまで多くもない。
詳細は分からなかったが、現役時代ケガに泣かされたらしいし足だったのかも?
監督用のあれこれ
監督特能用に(本来ならつかない特能ですが)尻上がり、打たれ強さA、意外性、強振多用を追加しています。
基礎能力を現実以上に盛るのはアレだったのでこっちでバレンタイン監督っぽさを出そうという試みです。
監督用の特能をつけるという挑戦をしてみました。監督試合でしか効果がないらしいのでアレですが。
年齢やプロ年数は一応2005年に合わせてあります*1。
*1:逆に成績はあえて設定してません
ジェフリー・ポール・マント(Jeffrey Paul Manto , 1964年8月23日 - )
再現年度…1996年(打率.111 0本塁打 1打点)
・1985年のMLBドラフト14巡目(全体355位)でカリフォルニア・エンゼルスから指名され、プロ入り。1990年にクリーブランド・インディアンスで初めてメジャーに昇格した。以降マイナーとメジャーを往復する生活が続いていたが、1995年にはボルチモア・オリオールズで三塁手の定位置を獲得。
・1996年1月26日、巨人に入団。年俸はそれまでの2千万程度から1億5千万円に跳ね上がる。武上四郎打撃コーチは「(本塁打を)70発は打つだろう」と評価したが、オープン戦から低迷が続いた。これを受けて、当時オーナーの渡邉恒雄が二軍降格を提案するが、当時の長嶋茂雄監督が「彼はテンプル大学出身だから、大丈夫でしょう」と(謎の)擁護をし起用を続ける。しかし結局成績は向上せず、外国人選手枠との兼ね合いで4月23日に解雇された。
・巨人でマントが記録した1打点はセンターへの犠牲フライであった。実況担当者は「さすがメジャーのパワーですね」と言ったが、解説者は「ほかの打者なら軽くスタンドに入っている」とコメントした。あまりの低調ぶりに、渡辺オーナーは「クスリとマントは逆から読んだらダメなんだ」と言い捨てた。
・巨人から解雇された直後にボストン・レッドソックスに移籍したが目立った成績を残すことが出来なかった。以降、重複を含めて7球団もの移籍を繰り返し、2000年シーズンを最後に現役を引退した。
・引退後はメジャーで打撃コーチやフロント職に就いている。
・渡辺オーナーの発言や解雇の早さが目立つため、クソ助っ人扱いされることも多いが、投手以外ならどこでも守れるという強みを持っており、さらに性格はよくアドバイスも上手かったらしい。チームへの貢献度や周囲からの尊敬もあったため、AAA級バッファロー・バイソンズ時代に付けていた背番号30はマイナーリーグとしては異例の永久欠番ににっている。
基礎能力
前後年を見て調整。
これでも結構抑えてるつもり。
調子極端も検討したが、メジャー時代を見てもそこまで調子のムラはなさそうだったのでつけなかった。
守備適正
日本では三塁しか守っていないが、本来はどこでも守れる。
捕手の守備についたのは1993年が最後なので捕手適正のみなしで。
チャンスF、対左投手B
MLB時代を参照。
対左はCでもいいかとは思ったが、通算でも対右.202 対左.272で無視できない差だったのでBに。
インコースヒッター、三振
打撃不振の助っ人にはインコースヒッターつけとけば大抵はしっくりくるからやっぱり対変化球×も欲しいな
— 怨霊(´・ω・`) (@glasses_ghost) 2020年5月11日
外角の変化球を打てなかった助っ人は多いからどうしてもね
言うほどクソ助っ人か?と思いました。
ガルベス、マックがいてさらにマリオを獲得するためとはいえいくらなんでも不遇すぎる。