ルーキ、デイビーズと共に入団した助っ人左腕
ルイス・マニュエル・ペレス・ゴンサレス(Luis Manuel Pérez Gonzalez, 1985年1月20日 - )
再現年度…2016年(2勝2敗 防御率8.02)
最近の選手なので説明省略(あまり説明することもなかったけど)
査定
全般
パワプロ2016デフォ。
いじってもよかったけど登板も少ないしめんどくさかった。
一言
もう少し若かったらわからなかったと思うけどね。
高代 延博(たかしろ のぶひろ、1954年5月27日 - )
再現年度…1983年(打率.275 9本塁打 55打点)
・智辯学園高校では内野手兼控え投手として活躍。1972年春季近畿大会で優勝を飾るが、甲子園には出場できなかった。
・卒業後は法政大学へ進学。東京六大学リーグでは3年生の時からレギュラーとして出場、2回の優勝に貢献。3年生秋に首位打者になる。1976年には明治神宮野球大会でも決勝で早稲田大学を降し優勝。
・卒業後は東芝に入社、中心打者として活躍する。1977年、1978年に都市対抗野球大会連続出場。1978年の大会ではチームの初優勝に貢献した。1977年には遊撃手として社会人ベストナインに選出され、第3回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表となっている。
・実家の割り箸工場が石油ショックの影響で経営難に陥り、纏まった現金の用立てを迫られたためにプロ入りを決めた。
・1978年ドラフト1位で日ハムに入団。1年目から遊撃手のレギュラーに定着しチャンスメーカーとして活躍、同年のゴールデングラブ賞も受賞した。翌1980年にはベストナインにも選ばれた。1981年のリーグ優勝に貢献。
・1984年には前半戦を故障欠場し定位置を岩井隆之に譲るが、8月にはレギュラーに復帰した。1985年、高代慎也(たかしろ しんや)に変更した。1987年には田中幸雄が台頭し、三塁手に回るが段々と出番が減る。
・1988年10月28日に広島に移籍、翌年に登録名を戻したが5試合の先発出場に留まり現役引退。
コーチ時代はWikipediaなどで見てくれ
盗塁B
盗塁成功率.800。
バント○
27犠打を決める。
だいたいこんなもんだろうという感じの査定です。
意外性をつけた理由はもう覚えてない。
堀内 庄(ほりうち しょう、1935年10月5日 - 2010年10月27日)
再現年度…1956年(14勝4敗 防御率1.46)
・松商学園では投手として甲子園に3回出場したが、いずれも初戦で敗退した。
・卒業後の1954年に読売ジャイアンツへ入団。1956年に14勝4敗で勝率.857をマークして最高勝率のタイトル獲得。翌年も12勝を挙げる。
・1958年も14勝と3年連続二桁勝利を記録。西鉄との三度目の日本シリーズでは2回戦に先発し、完投でシリーズ初勝利。
・1959年もチームのリーグ4連覇に貢献、1960年は故障もあって低迷するが、翌1961年には復活。1963年限りで引退した。
・引退後は巨人に残り1964年から1965年まで二軍投手コーチを務めた。投手陣整備の為に監督の広岡達朗から招聘され、1977年からはヤクルトスワローズ一軍投手コーチに就任。1978年のリーグ優勝・日本一に貢献し、1979年は二軍投手コーチ、1980年から1982年再び一軍投手コーチを務めた。
・2010年10月27日午前5時、大腸がんにより東京都内の病院で死去。満75歳没。
球速
どっかで見つけたんだと思う。
変化球
"懸河のドロップ"の使い手だったとか。
調べたところ、チェンジアップは1956年にはそんなに投げてない可能性も出てきてたが防御率的に変化量上げた。
巨人の堀内だと恒夫の方がめちゃくちゃ出てくるので情報が少ない、最高勝率取ってるのに、なんでや。
1978ヤクルトの投手コーチとして作ったので査定はそこそこ適当だった気もする。
ジョン・デビッド・ヒルトン(John David Hilton, 1950年9月15日 - 2017年9月17日)
再現年度…1978年(打率.317 19本塁打 76打点)
・1971年のMLBドラフト1巡目(全体1位)でサンディエゴ・パドレスにで指名され契約。1972年9月10日の対アトランタ・ブレーブス戦で、7番・三塁手として先発出場しメジャーデビューを果たし、メジャー初安打も放った。1976年オフに金銭トレードで新球団トロント・ブルージェイズへ移籍した。その後、クリーブランド・インディアンスへ移籍したが、メジャー昇格は果たせなかった。
・1978年に春季キャンプでヤクルトスワローズのテストを受けて合格し、入団。主に1番を打ち、開幕から首位打者を争うほど高い打率を残し、ヤクルトの球団創設初優勝、そして日本一に貢献。初回先頭打者本塁打シーズン8本は2007年に高橋由伸が9本を記録するまで史上最多記録だった(右打者としては1986年の石毛宏典・1999年の緒方孝市と並び最多タイ記録)。
・1978年の阪急ブレーブスとの日本シリーズの第4戦、4-5とリードされた9回表2アウト一塁の場面で、今井雄太郎からシリーズの流れを変える逆転2ランを放った。
・1979年は成績が低迷してオフに自由契約となるが、阪神タイガース監督のドン・ブレイザーが獲得を希望し入団する。しかし、阪神には1979年のドラフト会議で大阪出身の早稲田大学・岡田彰布が指名を受けて入団しており、ファンは岡田の起用を強く望んでいた。1980年のシーズン開幕後から、ブレイザーはヒルトンを起用するが、ブレイザーは岡田の起用を望むファンやマスコミから総攻撃を受け、ヒルトンもそのあおりを受けて打席に立つたびに岡田コールやヤジを浴びせられることとなる。結局、ヒルトンは打撃不振でシーズン途中の5月10日に解雇され、ブレイザーも5月15日に解任された。
・帰国後は1982年までAAAでプレー。
・引退後はミルウォーキー・ブルワーズのコーチ、ボルチモア・オリオールズ傘下のA+級フレデリック・キーズの監督を経て台湾球界で指導者となる。1999年は高屏雷公で打撃コーチを務め、シーズン終盤には休養した監督山根俊英の代行として12試合で指揮を執った。2000年と2002年は嘉南勇士の監督を務めた。
・2017年9月17日、自宅のあるアリゾナ州で亡くなったことが地元新聞社によって報道された。67歳没。
フォーム
オリジナル3に一番近い選手だと思う。
よく打てるなって思うよ。
チャンスB
1番で19本塁打(内8本は初回先頭打者本塁打だと明らかになっている)で76打点は多いと判断。
盗塁F
足はそこそこあるが盗塁成功率が.500と低い。
送球F
元々はショートだったが、送球難からセカンドにコンバートされた。
チャンスメーカー
右打者としては最多タイ記録の初回先頭打者本塁打8本。
一番○の意味合いが強い。
阪神での出来事は可哀想。
いい選手やでぇ。
ジョシュア・S・ホワイトセル(Joshua S. Whitesell, 1982年4月14日 - )
再現年度…2010年(打率.309 15本塁打 53打点)
知ってるっしょ←
全般
だいたいこんなもん。
2年目以降だとチャンスとか対左とかかなり変わってくるけどね。
ヤクルトに来た当時はまだ携帯を持ってなかったので、球場で初めて名前を見たときは何だこの名前!?と驚いた記憶があります。
新美 敏(にいみ さとし、1952年8月2日 - )
再現年度…1973年(12勝13敗 防御率3.65)
・PL学園では、エース、五番打者として1970年の夏の甲子園に出場。田代克業との二本柱で勝ち進み、決勝に進出するが東海大相模に敗れ準優勝に終わる。同年秋の岩手国体では優勝。卒業後は日本楽器に入社。1972年の都市対抗でチームの優勝に貢献し橋戸賞を受賞。同年の第20回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出される。
・1973年に日拓ホームフライヤーズにドラフト1位指名で入団。4月17日のロッテ戦で初登板し完封勝利を挙げた。その後も勝利を重ね、この年は12勝を記録しパ・リーグの新人王を獲得。翌年も12勝を挙げ球宴初出場を果たす。
・その後は勝ち星を減らし低迷。1977年に4対3の交換トレードで広島へ移籍することとなる。広島でも先発で結果を残せず、登板機会が段々と減り引退間近と思われた。しかし1983年から中継ぎに活路を見出し、同年は29試合に登板、5年ぶりの勝星をあげる。翌年も16試合に出場して優勝に貢献し、日本シリーズにも登板。その後も中継ぎとして起用され、1987年に引退した。
回復B
54登板(27先発)。
1年目ボーナスで甘めに。
力配分
完投6。
先中だったためスタミナを厳しくつけた分の調整(覚えてないけど)。
負け運
まぁ…ね。
意味もなくしばらく暖めておいた選手です。
何で暖めてたのかは自分でもよく分からん。
日ハムの新人王投手が~という話を見て投稿を決めました。
ジェイソン・ロバート・ベバリン(Jason Robert Beverlin , 1973年11月27日 - )
再現年度…2004年(9勝11敗 防御率4.42)
・1994年、MLBドラフト4巡目でオークランド・アスレチックスから指名を受け契約。
・2002年にクリーブランド・インディアンスでメジャーデビュー。
・2003年、ヤクルトスワローズに入団。196cmの長身から放たれる角度のある直球と縦に割れるカーブを軸にした投球で7月には8勝目をあげた。8月上旬に右ひじを故障し離脱し、そのままシーズンを終えてしまうが、球団の評価は高く残留を果たす。
・2004年は開幕投手を務め、チーム第1号となる本塁打を横浜ベイスターズの開幕投手だった三浦大輔から放ち、本業のピッチングでも8回1失点の好投を見せ、投打に渡る活躍で勝利に貢献した。このホームランは、打席に入る前に「カーブを狙ってくる」とチームメイトに話しており、予告ホームランであった。6月には5勝0敗という成績で月間MVPを獲得、オールスターにも選出された。この年は7月中には9勝目をあげるものの、8月下旬に2年連続で右ひじを故障し戦線離脱。検査の結果、靭帯損傷と診断され手術を受けるが、リハビリに1年かかるということもあり自由契約となった。
・1年のブランクをおいて2005年11月に、自身が得意にしてきた横浜ベイスターズの秋季キャンプにテスト生として参加。右ひじの状態に問題なしとされ、年明けに横浜に正式に入団。
・2006年は、開幕ローテーションに入ったものの、8試合で0勝4敗と全く結果を残せず、9月28日付で自由契約となった。
全般
パワプロ11超決定版ベース。
作ったときのことほとんど覚えてないや。
ジョン・ヘンリー・スコット(John Henry Scott , 1952年1月24日 - )
再現年度…1979年(打率.272 28本塁打 81打点)
・1970年のMLBドラフト1巡目でサンディエゴ・パドレスに指名され契約。1974年にメジャーデビューしたものの、メジャー定着はならなかった。1977年に新球団トロント・ブルージェイズに移籍し79試合に出場。4月7日の開幕戦では1番打者として球団史上最初の打者となった。1978年はセントルイス・カージナルス傘下3Aでプレーし50盗塁を記録したがメジャー昇格はならなかった。
・1979年にヤクルトスワローズに入団し、来日。5月27日の対阪神タイガース戦(甲子園球場)のダブルヘッダーでは、計4本塁打(第1試合で2ラン・満塁、第2試合でソロ・3ラン)を放ち、2試合にまたがる形であったものの、日本プロ野球史上初の「サイクル本塁打」を記録した。この年と1980年にパワーのあるバッティングと俊足を生かした守備で活躍し、2年連続でダイヤモンドグラブ賞を獲得。1981年も5月10日の対阪神戦で江本孟紀からサヨナラ本塁打を放つなど、活躍が期待されていたが、同年5月26日の対阪神戦での守備中、甲子園のラッキーゾーンの金網に激突し、左ひざの側副靱帯を損傷。以降シーズン中の復帰が叶わず、同年限りで解雇され、帰国した。
盗塁F
盗塁成功率はそこまで高くない。
守備職人
ダイヤモンドグラブ賞ボーナス。
ケガさえなければもっと球団を代表する助っ人になれてたかもしれない。
高井 一(たかい はじめ、1969年10月2日 - )
再現年度…1990年(打率.270 2本塁打 17打点)
・1987年のドラフト2位で横浜高校から阪神タイガースに入団。スイッチヒッターで、高校時代には両打席本塁打を記録した事もある。2年目の1989年に1軍初出場。1990年に66試合に出場した。しかし、1991年に骨折し、その後はヘルニアに悩まされた。その後は一軍出場機会が無く、1994年オフに自由契約になり、現役を引退した。阪神史上初の背番号100をつけた人物でもある(2017年から打撃投手の小嶋達也がつけている)。
右投左打
Wikipediaなど、スイッチヒッターとするサイトもいくつかあるが、NPBのサイトをはじめとした多くのサイトが左打と表記していたため左打に。
だいたいいつもそうなんですが、こういう選手は成長タイプ超晩成にしてあります。
君の手で主砲に育て上げよう!
というわけで実現出来そうなので企画についてまとめて概要をサクッと紹介しようと思います。
コンセプト
全国的に人数の少ない名字(珍名)を持つ選手でチームを組む。
珍名の基準
参照サイト…名字検索No.1/名字由来net|日本人の苗字・姓氏99%を掲載!!
「これまでに一軍出場がある選手と2018年ドラフトでプロ入りした選手で、現在の国籍が日本である選手」の中から上記のサイトで全国人数500人以下の名字を手作業でリストアップしました(都合上旧字体や異体字が含まれる名字はパワプロ2018に収録されている選手以外カバーしきれていない場合がある)。
パワプロ2018のアレンジチームに入れられる選手の上限(70人)に収めることを考えた結果、今回は全国人数50人以下の名字の選手を集めてチームを組むことになりました。
また、名字由来netさん自体が旧字体や異体字を含む名字をカバーしきれていない可能性も考えられますが、それは考えないものとしています(調べて出てきた全国人数を絶対とする)。
選手一覧(名字のみ)
全国人数…調査中
石𣘺、金刃、正隨、髙濱(2名)、濱涯、𠮷田
全国人数…10人
阿知羅、有町、江柄子、玄岡、定詰、梵、筒香、濃人、緋本、諸積
全国人数…20人
淺間、慶元、栄屋、乗替、濱矢、聖澤、無徒
全国人数…30人
淡口、隠善、加治前、歌藤、鬼屋敷、杉田屋、笘篠(2名)、長持
全国人数…40人
赤根谷、赤見内、奥浪、嘉弥真、菊矢、條辺、銚子、土井垣、戸郷、左澤、坊西、塹江、南牟礼、衆樹、湯上谷
全国人数…50人
青柴、垣越、木頃、古葉、鞘師、芝草、下須崎、外木場、永射、新浦、三ツ俣、室脇、八名、矢ノ浦
※一軍出場が極端に少ないなどの理由でパワプロでの再現が不可能だと判断した選手は除外しています。
一部選手は他の方が作成したものをお借りしつつ、これから少しずつ査定、作成を進めていこうと思います。
チーム名等は白紙ですがそれはチームが完成に近づいてきてから考えようと思います(監督を一言多十さんにすることだけは決めてる)。
では。
若井 基安(わかい もとやす、1963年8月11日- )
再現年度…1994年(打率.317 1本塁打 16打点)
・PL学園高校時代に1981年春の甲子園で1番打者・右翼手として出場し、優勝する。卒業後は法政大学に進学し、二塁手として活躍。全日本大学野球選手権大会で1982年・1984年・1985年の計3回優勝。
・社会人の日本石油へ入社1年目の1986年、第57回都市対抗野球大会に出場し、トップを打つ鈴木慶裕と1・2番コンビを組んで5試合のうち4試合でヒットを放ち、8打点を挙げて優勝に貢献。若獅子賞を獲得する。
・1987年のドラフト会議で2位指名で南海に入団。高校・大学・社会人ですべて日本一を経験していることから即戦力として期待が高く、1988年の開幕戦では三塁手でスタメン出場した。しかし、不慣れな三塁で(社会人時代は二塁手であった)お粗末な守りを連発し、シーズン後半にはレギュラーの座を失う。
・1989年からは外野手に転向も、外野には強打者が多くレギュラー獲得には至らなかった。
・1990年はウィリー・アップショーが成績不振で途中帰国したため、後半戦から「5番・ファースト」として起用された。この年以降は、巧みなバットコントロールを武器に代打で好結果を残し、この頃から代打の切り札として重宝されるようになる。
・1994年には二塁でスタメン出場することもあったが、この年入団した小久保裕紀が二塁に定着すると再び代打での出場がメインになる。しかし、1996年には小久保の不調もあり、シーズン中盤には4番を打った。
・1999年は1軍出場なしに終わり、この年限りで戦力外通告を受け引退。この年ダイエーは日本一となり、若井は最後の最後にプロでも日本一を経験した。
・引退後はすぐに編成部担当となり、2002年から親会社がソフトバンクに代わったのを経て2012年までスカウトを務め、柳田悠岐などを担当した。2013年からは三軍打撃コーチに転じていたが、2014年10月5日にシーズン限りで退団する事が発表された。
・退団後は会社員やボーイズリーグのコーチをしていたが、元々「アマチュアの指導をしたい」との思いがあり、プロ野球時代のつてで声がかかり、2016年9月に高川学園高等学校野球部監督に就任した。
対左投手G
再現年度の対左右打率は分からなかったが、1996年は対右.263に対して対左.148と苦手としている。
1997,8年は逆に左を得意としているが1996年基準でGに、ミート上げたり代打○つけたりで調整してます。
高校・大学・社会人・プロの全てで日本一を経験したって普通に凄いよね。
小山 良男(こやま よしお、1980年7月14日 -)
再現年度…2005年(打率.200 0本塁打 1打点)
・川崎市立平間中学校では中本牧リトルシニアに所属、1995年全日本中学野球選手権大会ジャイアンツカップで優勝。シニア日本代表に選抜される。
・横浜高校では上地雄輔に代わり正捕手となり、3年時は渡辺元智監督に任命された主将として松坂大輔とバッテリーを組み、1998年の甲子園春夏連覇及びかながわ・ゆめ国体で優勝を果たした。中村順司前PL監督が指揮を執る第3回AAAアジア選手権大会日本代表では寺本四郎・杉内俊哉・久保康友・上重聡ら松坂以外の投手からも全幅の信頼を置かれ優勝に貢献。
・亜大でも主将を務め、2002年の大学選手権、明治神宮大会で優勝。4年生の夏には山中正竹法政大学野球部監督が指揮を執る第1回世界大学野球選手権日本代表にも選出され3位入賞。
・大学卒業後は社会人野球のJR東日本に入社。JR東日本硬式野球部に所属して第74回都市対抗野球大会に出場し、翌年の第75回都市対抗野球大会では鷺宮製作所硬式野球部補強選手として出場。その後、2004年のドラフト会議で中日ドラゴンズから8巡目で指名され、下位指名ながら8000万円という破格の推定契約金で入団。
・ルーキーイヤーの2005年、即戦力として期待され一軍に昇格。5試合に出場してプロ初安打、初打点を記録。2006年はわずか3試合の出場であったが、日本シリーズ有資格者にも選ばれた。2007年は一軍ではわずか1試合の出場で二軍でもルーキーの田中大輔が正捕手として定着した為、出場機会も減少。2008年は一度も一軍に昇格することなく、オフに戦力外通告を受け現役引退、ブルペン捕手へ転身。
・2016年より一軍捕手コーチに就任したが、開幕わずか3試合目で小川将俊と入れ替わる形で二軍バッテリーコーチに配置転換された。2017年は育成コーチを担当する。
・2017年11月29日、中日ドラゴンズ育成コーチを退任し、編成部スカウトとなることが発表された。3年ぶりに現場復帰。
人気者
WBC優勝後のシャンパンファイトでは、イチロー、松坂、稲葉篤紀、城島健司、岩隈久志に続いて、周りの「ヨシオ」コールの中で小山も胴上げされた。この事について松坂は、「大会中自分の他、ピッチャーの球を受け続けた彼が胴上げに値すると、投手陣が当然の感覚として湧き上がった気持ちだと思う。」という旨をテレビの取材で告白している。
この人がいなければ松坂は帝京に行っていたかもしれないんですね、知らなかった。