球団初の日本一に貢献した、ユマキャンプでの拾い物
ジョン・デビッド・ヒルトン(John David Hilton, 1950年9月15日 - 2017年9月17日)
再現年度…1978年(打率.317 19本塁打 76打点)
・1971年のMLBドラフト1巡目(全体1位)でサンディエゴ・パドレスにで指名され契約。1972年9月10日の対アトランタ・ブレーブス戦で、7番・三塁手として先発出場しメジャーデビューを果たし、メジャー初安打も放った。1976年オフに金銭トレードで新球団トロント・ブルージェイズへ移籍した。その後、クリーブランド・インディアンスへ移籍したが、メジャー昇格は果たせなかった。
・1978年に春季キャンプでヤクルトスワローズのテストを受けて合格し、入団。主に1番を打ち、開幕から首位打者を争うほど高い打率を残し、ヤクルトの球団創設初優勝、そして日本一に貢献。初回先頭打者本塁打シーズン8本は2007年に高橋由伸が9本を記録するまで史上最多記録だった(右打者としては1986年の石毛宏典・1999年の緒方孝市と並び最多タイ記録)。
・1978年の阪急ブレーブスとの日本シリーズの第4戦、4-5とリードされた9回表2アウト一塁の場面で、今井雄太郎からシリーズの流れを変える逆転2ランを放った。
・1979年は成績が低迷してオフに自由契約となるが、阪神タイガース監督のドン・ブレイザーが獲得を希望し入団する。しかし、阪神には1979年のドラフト会議で大阪出身の早稲田大学・岡田彰布が指名を受けて入団しており、ファンは岡田の起用を強く望んでいた。1980年のシーズン開幕後から、ブレイザーはヒルトンを起用するが、ブレイザーは岡田の起用を望むファンやマスコミから総攻撃を受け、ヒルトンもそのあおりを受けて打席に立つたびに岡田コールやヤジを浴びせられることとなる。結局、ヒルトンは打撃不振でシーズン途中の5月10日に解雇され、ブレイザーも5月15日に解任された。
・帰国後は1982年までAAAでプレー。
・引退後はミルウォーキー・ブルワーズのコーチ、ボルチモア・オリオールズ傘下のA+級フレデリック・キーズの監督を経て台湾球界で指導者となる。1999年は高屏雷公で打撃コーチを務め、シーズン終盤には休養した監督山根俊英の代行として12試合で指揮を執った。2000年と2002年は嘉南勇士の監督を務めた。
・2017年9月17日、自宅のあるアリゾナ州で亡くなったことが地元新聞社によって報道された。67歳没。
査定
フォーム
オリジナル3に一番近い選手だと思う。
よく打てるなって思うよ。
チャンスB
1番で19本塁打(内8本は初回先頭打者本塁打だと明らかになっている)で76打点は多いと判断。
盗塁F
足はそこそこあるが盗塁成功率が.500と低い。
送球F
元々はショートだったが、送球難からセカンドにコンバートされた。
チャンスメーカー
右打者としては最多タイ記録の初回先頭打者本塁打8本。
一番○の意味合いが強い。
一言
阪神での出来事は可哀想。
いい選手やでぇ。