左打ながら「左投手の方が得意だ」と話しており、事実パ・リーグを代表する各左投手からハイ・アベレージを残している*1
一大転機となったのは春のキャンプ。ブルペンで野口茂樹が球を低めに集めていたのを見て、「これだ!」と閃く。連日低めへのコントロールを磨き、打たせて取る投球術を会得した
ジム・トレーバー
相手の隙をついて外野フライで一塁から二塁にタッチアップするなど、走塁面でも状況判断に長けていた
ジム・マーシャル
来日2年目の64年、オールスターに選出されると「選ばれたことが名誉なんだ」と言って、ハッスルプレーに徹した。
ウィリー・カークランド
来日1年目にいきなり37本塁打を放ち、長打力不足に泣いていた阪神の救世主となった。しかし、三振も多く「引っ張り専門」で打率も決して高い方ではなかった
バーニー・ウイリアムス
76年の日本シリーズ、第7戦で逆王手をかけ勢いに乗る巨人が6回ウラに2-1と勝ち越す。だが、7回表に内野安打で出塁したウイリアムスがすかさず二盗して流れを引き戻した。カッとなったマウンドのライトは平常心を失い次打者の森本潔に逆転2ランを浴びることとなり、阪急はこの試合を制し日本一に輝く
翌年の巨人対阪急の日本シリーズでも、一塁走者だったウイリアムスの俊足を警戒するあまり、遊ゴロでの二封をあきらめるという判断ミスがきっかけで決勝点を許してしまった
ボビー・ミッチェル
とにかく打席に入ったら「ホームランを打つ」ことしか頭になく、ヒット狙いのバッティングはもとより、四球を選ぶことすら嫌がった
代名詞でもある右手を離す大きなフォロースルーが仇となる。相手チームの投手による執拗な内角攻めで調子を崩し、怪我の影響もあり89年以降の成績は散々だった
スライダー、チェンジアップを駆使する軟投派だが、制球はいまいち。どちらかというとクセ球で打者をかく乱するタイプの投手だった