小・中学生時代の清原を指導した荒れ球投手
及川 宣士(おいかわ のぶじ、1944年6月8日 - )
再現年度…
・東北高校では1961年、2年生の時に夏の甲子園に一塁手として出場。2回戦で岐阜商に敗退。翌年の夏は東北大会準決勝に進出、リリーフとして登板するが、保原高に敗れ甲子園出場を逸した。
・1963年に大洋ホエールズに入団。一時は高橋重行らとともに整理対象寸前であったが、当時の別所毅彦コーチにドロップボールを伝授され、現役維持。
・1965年4月にはこれを武器に一軍で初先発、阪神タイガースを完封し初勝利を飾る。同年は先発陣の一角として9勝を挙げた。
・その後も毎年30試合前後に登板するが、結果を残せず段々と登板機会を減らす。1973年に太平洋クラブライオンズへ移籍、この年を最後に引退した。
・1978年、岸和田リトルの栄川良秀監督から、抜群の素質を持つ小学生、清原和博の指導に関して相談を受ける。岸和田シニアの監督である及川が、特別コーチとして、当時の清原の弱点であった下半身強化のための特別な練習メニューを作り指導した。清原の中学入学後も、及川は岸和田シニアの監督として引き続き清原を指導した。
査定
球速
どっかで見つけたんだと思う。
変化球
投球スタイル的にもWikipedia的にも多分ドロップ系のカーブが一番の武器。
球種は多かったらしいが、さらにその中でも投げていたという記述が多い気がしたスライダーとフォークを採用。
ノビF、重い球
棒球だけど重かったみたい。
逃げ球
荒れ球。暴投たくさん。
一言
清原って小学生の頃から凄かったんだね(棒)。
今日は記事書くの忘れてたのでこの記事と雑記一つだけになります。