パワプロのやつ

外国人選手好きのパワプロブログ

若井基安【パワプロ2018】

 

「年を取っても若井」


f:id:glasses_ghost:20190707210340j:image
f:id:glasses_ghost:20190707210346j:image

若井 基安(わかい もとやす、1963年8月11日- )

再現年度…1994年(打率.317 1本塁打 16打点)

 

PL学園高校時代に1981年春の甲子園で1番打者・右翼手として出場し、優勝する。卒業後は法政大学に進学し、二塁手として活躍。全日本大学野球選手権大会で1982年・1984年・1985年の計3回優勝。

・社会人の日本石油へ入社1年目の1986年、第57回都市対抗野球大会に出場し、トップを打つ鈴木慶裕と1・2番コンビを組んで5試合のうち4試合でヒットを放ち、8打点を挙げて優勝に貢献。若獅子賞を獲得する。

・1987年のドラフト会議で2位指名で南海に入団。高校・大学・社会人ですべて日本一を経験していることから即戦力として期待が高く、1988年の開幕戦では三塁手でスタメン出場した。しかし、不慣れな三塁で(社会人時代は二塁手であった)お粗末な守りを連発し、シーズン後半にはレギュラーの座を失う。

・1989年からは外野手に転向も、外野には強打者が多くレギュラー獲得には至らなかった。

・1990年はウィリー・アップショーが成績不振で途中帰国したため、後半戦から「5番・ファースト」として起用された。この年以降は、巧みなバットコントロールを武器に代打で好結果を残し、この頃から代打の切り札として重宝されるようになる。

・1994年には二塁でスタメン出場することもあったが、この年入団した小久保裕紀が二塁に定着すると再び代打での出場がメインになる。しかし、1996年には小久保の不調もあり、シーズン中盤には4番を打った。

・1999年は1軍出場なしに終わり、この年限りで戦力外通告を受け引退。この年ダイエーは日本一となり、若井は最後の最後にプロでも日本一を経験した。

 

・引退後はすぐに編成部担当となり、2002年から親会社がソフトバンクに代わったのを経て2012年までスカウトを務め、柳田悠岐などを担当した。2013年からは三軍打撃コーチに転じていたが、2014年10月5日にシーズン限りで退団する事が発表された。

・退団後は会社員やボーイズリーグのコーチをしていたが、元々「アマチュアの指導をしたい」との思いがあり、プロ野球時代のつてで声がかかり、2016年9月に高川学園高等学校野球部監督に就任した。

 

査定

対左投手G

再現年度の対左右打率は分からなかったが、1996年は対右.263に対して対左.148と苦手としている。

1997,8年は逆に左を得意としているが1996年基準でGに、ミート上げたり代打○つけたりで調整してます。

 

一言

高校・大学・社会人・プロの全てで日本一を経験したって普通に凄いよね。