日本ハムファイターズ、最初にして最悪の外国人
ローレンス・バレット・スノー(Laurence Vallette "Val" Snow,1945年2月9日 - 2011年5月8日)
再現年度…1974年(失踪)
・ユタ州立大学卒業。1966年にニューヨーク・メッツ傘下、1967年にクリーブランド・インディアンス傘下のマイナーリーグ加盟球団でプレー。マイナー所属前の1964年にはシンシナティ・レッズから声がかかったものの、契約直前の新婚旅行中に自動車事故で負傷、機会を逸したという。1973年には大学で投手コーチをしていた(※ただし、経歴の細部は不明の点が多く、これが全て事実かどうかは不明)。
・1974年、貿易会社の社員として日本へ渡ったついでに日本ハムファイターズの入団テストを受け、3月26日付で入団。日本ハムファイターズ(前身球団除く)として初のカタカナ登録名による外国人選手であった。入団にあたっては、大学時代にスノーと同級だった日本の貿易会社社長が仲介にあたった。
・初月給支給と翌日の二軍での登板を告げられた4月25日に突如失踪した。球団の捜索でも見つからず、4月30日に球団首脳部は契約解除を申請。一方入団を仲介した貿易会社の社長も球団の依頼でスノーを探しており、スノーが既に帰国していることを把握していた。本人によれば、滞在先のホテルに脅迫電話がかかったり、暴漢に襲われたりしたため、恐怖を感じて帰国したが、日本に戻る意思はあったという。社長は4月30日に球団に事態を連絡、復帰に向けて球団やパシフィック・リーグと交渉を始めた。スノーの帰国は5月2日に球団社長の三原が原因をホームシックとして説明し公となったが、復帰についてはたとえ日本に戻ってきても再契約するつもりはないと冷淡な態度を示した。
・結局契約解除はパシフィック・リーグの事務局に受理され、5月4日に公示された。同国のプロ野球を統括する日本野球機構コミッショナー事務局は、スノーを5月9日付でパシフィック・リーグ初、国内では1971年の高山忠克以来2例目の無期限失格選手に指名した。
査定
はじめに
日本での登板がないだけでなく、無期限失格選手に指名されているため情報が死ぬほどないです。本によっては存在そのものがなかったことにされてたりするらしい。
唯一1966,67年のルーキーリーグとAでの記録だけはあったのでそれをベースに査定しました。
球速
知らん。
バッキー2世と称され「1年目のバッキーよりいい」とまで言われることもあったらしい。
変化球について一切の記述が見つからなかったことなども考慮してそれなりの140km/hに。
コントロール、四球、乱調
1966,67年の成績を参照。
被本塁打率0.4はそこそこ優秀だが、与四球率が驚異の9.7。
単純にノーコンである可能性が極めて高い。
普段参考にしているサイトの計算式を使ったところG3になってしまう。
しかしテストの際、張本に低めに来る直球を褒められていることもあったようなので多少上げたい。
ルーキーリーグの成績を無視して再び計算式に当てはめるとG11になったのでそれを採用、四球と乱調をつけて調整。
ここは完全に適当、サクセスで何とか作れるくらいに(これでもそれなりに厳しい)。
スタミナ
1966,67年の投球回から。
少し甘めの査定だがこれでもいつもの基準より弱くしてる。
変化球
記述が一切ない。
スローボールくらいは投げれるだろ、ということでチェンジアップを採用。
ペッぺさんに乗っかって名前をスノーボールに。
スノーにはオリ変で「スノーボール」付けても問題ないでしょう
— 坂本村 (@giantsfanPeppe) 2019年6月28日
ノミの心臓
「滞在先のホテルに脅迫電話がかかったり、暴漢に襲われたりしたため、恐怖を感じて帰国した」というエピソードから。
本人の言ってることなので真偽は不明だがそんなのはこっちの知ったことじゃない。
ケガしにくさG、回復G
失踪(カメハさんリスペクトを含む)。
ノビD
1966,67年の奪三振率が結構優秀。
変化球をクソ弱くした分ノビはおまけした。
ポーカーフェイス
球団側に悟られずまんまと失踪した。
ムード×
そりゃね。
一言
前代未聞の再現だと思います、だって9割9分9厘捏造だもん。
そしてこれがなんと記念すべき100記事目です、めでたいがこんな選手でよかったのか。
今後も変わらず気ままにやっていくのでどうぞよろしくお願いします。
今日の投稿はこれだけです。