NPBで一軍出場のある唯一の中国出身者
劉 瀬章(りゅう せしょう、1911年 - 1972年)
再現年度…1939年(8勝12敗 防御率2.40)
・日本の本牧中学(現在の横浜高校)ではエース投手として活躍。右のアンダースロー投手であった。
・本牧中を卒業後、法政大学へと進み同野球部へ入る。東京六大学野球リーグ戦1932年秋シーズンにおいて若林忠志と共に法政2度目の優勝に貢献した。
・1938年に発足したばかりの南海軍へ入団。同年7月24日、南海初の公式戦となる「第2回読売優勝大会」の対ライオン軍戦に先発投手として登板したが、3回3失点で降板、チームも5対8で敗れている。続く7月28日の阪急軍との「南海結成記念試合」でも先発したが、こちらは3回降雨コールドゲームに終わっている。
・1940年、4月6日の対阪急軍戦で先発するものの1アウトも取れずに4安打1四球4失点で降板、試合は2対32で現在でも最多失点日本記録の大敗となっている。この後も名古屋軍戦でも2対14で大敗するなど、1つも勝てずに6連敗を喫し現役を引退した。
・政野岩夫、平野正太郎と並んで「南海のアンダースロー三人衆」と呼ばれた。決め球はシンカーだった。
査定
全般
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【パワプロOB査定】劉瀬章 | パワプロOB査定 投手中心に昔の選手を査定していきます
あとはそれっぽい特能とかをつけたり。
一言
横浜高校軍団の投手ですね。
外国人枠とかの概念がそもそもなかった頃の選手なので日本人扱いになってます。