横浜の捕手としては最多の23本塁打を放った"ドサキング"
伊藤 勲(いとう いさお、1942年5月14日 - 2007年5月26日)
再現年度…1969年(打率.266 23本塁打 60打点)
・東北高校では2年次の1959年に控え捕手として夏の甲子園に出場し、準決勝で宇都宮工高に敗退。レギュラーとなった3年次の1960年夏も甲子園に連続出場したが、1回戦で青森高に敗退。
・1959年に同校出身の波山次郎が大洋に入団していたこともあって、1961年に大洋ホエールズへ入団。契約金は170万円で、年俸は36万円だった。
・ルーキーイヤーから一軍でマスクを被り、同年7月30日の中日戦で初出場を果たした。
・1964年から正捕手として活躍し始める。三原脩監督に「グラウンドの指揮官」と呼ばれた土井淳からレギュラーの座を奪い取る形となり、過去3年間の計55試合出場から一気に125試合に出場。同年のオールスターゲームにも初選出される。
・1969年には自己最多の23本塁打、60打点を挙げ、初の規定打席に達する。
・伊藤が同年放った23本塁打は大洋・横浜・DeNAの捕手として最多本塁打記録である。
・その後も長いですが書いていくと文章が大分長くなるのでここでストップ、気になる人はWikipedia見てください。ほぼそのままなので。
査定
肩力
盗塁阻止率が.500行った年もあったらしい。
めちゃくちゃ低い年もあったらしい。
捕球低いしそれなりに良い感じになると思う。
併殺
この走力で併殺10個でつけるのは少し厳しいかもしれないけど安定感のなさを出したかった。
あと他の年度を見ても多め。
調子極端、強振多用
打率の低さから起用が減っていった。
あと1964年に最多三振取ったりしてる(100三振だけど)。
一言
東北高校出身の人、横浜行きがちじゃない?