ヤクルト初の日本一に貢献した"赤鬼"
チャールズ・フークア・マニエル(Charles Fuqua Manuel, 1944年1月4日 - )
再現年度…1978年(打率.312 39本塁打 103打点)
・高校時代は野球以外のスポーツでも活躍。当時はバスケットボールが一番好きで、いくつかの大学から奨学金付きの勧誘を受けていたが、高校卒業間際に糖尿病も心臓疾患を患っていた父親が自殺。母と兄弟の世話をするよう求める遺書が残されていた。いくつかのMLB球団から誘いを受けていたため、ミネソタ・ツインズと2万ドルで契約。
・1969年にメジャー初昇格。しかし目立った活躍はできず、6シーズンで僅か4本塁打に終わった。
・AAA級アルバカーキを経て、1976年ヤクルトに入団。
・1977年に打率.312 39本塁打 107打点と活躍し、球団初の2位躍進に貢献した。
・1978年も好成績を残し、ヤクルトの初優勝、日本一に貢献。しかし機動力や守備力を重視する広岡達郎監督の評価は低く、オフに交換トレードで近鉄に移籍。
今回はヤクルト時代の再現なので説明はここまで(長く書きすぎた)。
査定
基礎能力
ミート、パワーは成績から、それ以外は他の方が作成した近鉄時代の能力などを参考にしました。ヤクルト時代は情報がない。
チャンスD、対左投手E
ヤクルト時代は情報がない(2回目)。
本塁打数と打点からチャンスはDでいいと判断。
対左に関してはTwitterで偉大なる先輩方に協力をあおいだがそれでも分からず。
翌年は左投手に対して打率.200と苦手にしている(右投手に対しては.374)ことからEに。
ハイボールヒッター
高い球よく打つらしい。
ムード○
ヤクルト、近鉄の所属した両方の球団を優勝に導いた優勝請負人。
また、両球団共にマニエルが去ったあと最下位になっている。
一言
ヤクルト時代は誰も作ってないじゃねぇか!と思ったら情報がないからでした。
査定についてのところでも書きましたが、Twitterで偉大なる先輩方に協力していただきました。ありがとうございました。ご迷惑おかけしました。
いずれ紹介するかもしれませんがマニエルは1978年ヤクルトをチーム単位で作った際の再現でした、いずれチームの紹介もしたいね。